オシャレな人
The Lovers - Rene Magritte
かねてからオシャレな人とは3種類あるように感じていた。その分類について誰かと語る機会を逃し続けてしまっているため、備忘録的に文章にまとめてみることにした。
(この文章は2019年に書いたものを適宜修正して掲載したもの)
1. はじめに
私は人の服装に関して言及するときにかなり厳密に言葉を使い分けている(ある程度の関係性がないとそもそも言及しないし、言及することが求められる機会も少なく、わざわざ言及しない)。一つは「オシャレ」という表現、この表現はその人の服装に思想やストーリー、さらには新規性といった、何か自分の心に強く響いたものがある場合にのみ使っている。そのため、テンプレートな装いやブランドを着る文脈が伝わらないスタイリングを見掛けても「オシャレ」とは感じない。そしてもう一つが「服に気を遣っている」という表現。この表現は「別に自分の好みの服装ではないが、一般的に見て『良い(ないし清潔感がある)』とされるであろう服装」に対して使っている。他にも服そのものを評価して「可愛い」「かっこいい」「良い」などの表現を天気の話くらいの気軽さで伝えることもある。
こうした前置きは自身の考え方の提示になるとともに、オシャレはあくまで主観であり、この先の文章はガチガチの主観に基づいて書かれた文章であることを強調することに期待を込め、記述している。以下の文章はあくまで主観的なものだとして読んでいただきたい。
2. 3種のオシャレ
オシャレには3種存在していると考えている。
①服の魅力が強い人
服としての魅力が強い服があり、それを着用するor着こなすことに目的を置く人がいる。この魅力は個人的な好みに依存しており、私が見ているのは、服のつくりやかたち、ディティール(サンプリング元やステッチなど)や配色、更には服の材質などを見ている。その服一着だけで心を奪ってしまう、そのような服をさらりと着こなす人が世の中にはいて、経験的にこうした特徴のある人はスタイルが良い人、もしくは服そのものが好きな人に多いと考えている。本人は比較的淡白な容姿であることも多く、服を展示するかのように着こなしている事も多い(自分をマネキン感覚で捉えている)。しかし、特定のブランドを好んで着る方は、そのブランドのもつ空気感や質感が容姿にも反映されているため、一概に淡白な容姿と断定することはできない。
②スタイリングが上手な人
スタイリングが上手な人はオシャレだと思う。例を挙げると、私なら絶対着こなせないであろうカラーリングをしていたり、サイズの違いを上手く活かしたスタイリングや着用者の体型に合わせたスタイリングができる方などである。当然の話であるが、服は同じ種類でもサイズが色々存在しているため、どの服を選ぶかに次いでどのサイズを選ぶかが重要な視点となる。サイズ感の異なる服の中で、自分に似合う服を選び出す能力もスタイリングの能力であり、それができる人は鍛え方が違うなと度々感じている。
「身長が高い人は何着ても似合う」といった主張を度々聞くが、これは服を選ぶ際に、身長が高い場合はサイズ感をさほど重視しなくとも流通している服を羽織れば基本的に「それっぽく」なりがちなため、言われている言説だと感じている。つまり、スタイリングの能力が乏しくとも身長が高ければごまかせる、は言い過ぎかもしれないが服が馴染む可能性が高いためであると考えている。経験的にこうした、スタイリングが上手な方は身長やスタイルに比較的恵まれてないけど「オシャレ」な方や、組み合わせで提案することが自らの営業成績に直結するアパレル店員の方(単に服を組み合わせて着る訓練量が多いだけかもしれないが…)に多く見られる気がする。自分の体型に自覚的で、それと上手く向き合い、服を着こなす方は素敵だと常々思っている。
③肌のように服を纏う人
この種のオシャレの存在は以前から感じていたが、なかなか上手く言語化できなくて、そんな矢先に見つけたブログでその記述の的確さに感嘆したため引用する。
(40代サラリーマンの日記 「服好きな人=お洒落な人ではないという話」より) http://hanemone.blogspot.com/2018/03/blog-post_65.html?m=1
「お洒落な人とは、時と場所を選んで、どのように見られたいかという意思を持つ人。自分が何者であるかを知っている人。」
この引用の後半部分は、②スタイリングが上手な人、と内容が近いように感じるため、前半を中心に考えたい。
人の服を見ていると、「こういった服装が好きである」「こういう服が着たい」という感覚以外に「他者に見られたい自分の像」があるように感じる。それは、自分が勝手に汲み取ってしまったものではあるが、恐らくそうした像は、本人も意図して設定したものであると思っている。私も「初めて会う人には、こういった印象を持たれたいので、こういった服を着よう」といった服の選び方をする事があり、上述のオシャレな人は、この選択肢の幅や精度が極めて高く感じる。服としてのインパクトが薄くても(ただこういった方はスタイリングも優れているケースが多い)、空間に馴染み、着ている方に馴染む服をさらりと着こなしている。
こういったオシャレは得てして見逃されがちで、一部の人からは一見すると地味な印象を抱かれる事もあるかもしれない。しかし、私はこのようなオシャレができる方を一番尊敬している。
上述のブログの最後にはこのような言葉で締められている。
「お洒落な人と服好きでは全く違ったタイプの人だと思います。芸能人にお洒落な人が多いと言われますが、芸能人は見られるのが仕事なので自分がどのように見られているかを意識する人が多く、そしてどのように見られたいかという自身のイメージを事務所の人などと話し合っているので、自然とお洒落になっていく人が多いのだと思います。
(中略)
それと、「どう見られたいか」「自分は何者なのか」という問いかけを、どれほどの期間やってきたかによって差がでます。40歳を過ぎてから考え出した人と20代のうちから意識していた人では、やはり経験の差が出てきます。こう考えるとお洒落は一種の修行のような感じもしますので、私は周囲のお洒落な方々には頭が下がる想いなのです。」
せっかくの人生であるから、服というモノを意識するきっかけが生まれた以上、「どう見られたいか」といったような問いかけを継続的に行っていきたいものだ。
決め手なんてなかった
リンドウ@家
ずっと、結婚という大きな意思決定はなぜ行えるのかが分からなかった。
そのような感覚は、過去にも考えを書き起こし咀嚼を試みたことがあり、自分にとっての大きなテーマであり続けた。恋愛→結婚のマイグレーションに失敗する関係性を描いた映画を観ては、その救いのなさに辟易することもあった。
既婚者に対しては、なぜ結婚という意思決定が行えたかを尋ね、「相手といた年数が長いから」とか「この人は良いなと思ったから」など分かったようで分かってない回答が返ってきて、納得がいかないことも多々あった。
しかし、実際に自分が結婚をして、結婚の決め手というものを考えてみても明確な答えを見つけることはできない。意思決定の裏にあったのは、日々の積み重ねであり、理ではなく情であった。この人との生活を続けていきたいという思いが次第に強まり、ゆるやかに意思決定が定まったという事実のみが横たわっている。
強いて挙げるのであれば「相手との生活が描けるか」という観点であるが、これは難しい観点だと思う。交際前にもある程度の判断がつくが、交際し、同棲しないと見えてこないことも多々ある。その精度を上げていくことは時間やケイパビリティの観点から限界があり、結局は偶然性に支配された領域なんだと割り切って試行することしかできないのかもしれない。
世の中に魅力的な人は沢山いるが、偶然性の支配下でここまで魅力的で、加えて生活が描ける人と出会えたことを幸運に思う。
最近はどうしても慣れる(≒survive)することに意識がいってしまうが、ここらで気持ちを入れ替えて成長することに焦点を当てていきたい。変化する環境の中で、健やかに、しかし大胆に生きていこうと思う。
生活圏の余白とのつきあい方
0. はじめに
スケジュール帳を見て予定が空いていると予定を入れて埋めてしまうことがある。人との予定は、入っていれば入っているだけ生活が楽しくなるし、バイトは入れるだけ入った方が得られる金銭も大きくなり、結果として他の時間の幸福度が上がる気がする。そんなこんなで後でスケジュール帳を見ると毎日びっしりと予定が入っていることに気が付く。
だが実際、予定が密であれば密であるほど幸福度が高いかというとそうでもなく、予定の無い日が適度にバラツいた方が、思いもよらない時間の過ごし方ができる場合もある。人との予定を詰めるのではなく、もう少し「遊び」=「余白」を持たせた方が面白いような気もしている。
一ヶ月ほど「余白」に着目して生活する中で余白のポテンシャルに気付かされた。冒頭のスケジュールの例であれば、余白はそのときの気分で使える自由な時間でもあるし、急な誘いに応じることで意図していなかった巡り合わせが生まれる時間でもある。
人生には偶然性を取り込むことが重要だと考えている。偶然性を伴わない生き方は、自分が考えている世界の、外側に位置するような体験が得られないし、それはとても窮屈で物足りない生き方のように感じる。人生に「余白=偶然性が生まれる場所」を計画的に取り込むことの面白さを最近実感しつつある。
ここで、改めて余白との付き合い方に向き合ってみる。
余白は色々なものに存在している。デザインの余白、絵画の余白、音の余白、空間の余白、人生の余白、etc
もはや、平面・立体や時間軸を含めた四つの次元で感じるものであれば全て余白が存在しうる、とまで言い切れる。そのような様々な余白のうち、今回は「生活圏の余白」に着目してみようと思う。
新型コロナウイルスは産業や人々の生活を激変させた。例えば、もともと閉鎖・密(集約)を条件とするような音楽産業は壊滅的な被害を受け、ライブハウスなどは潰れていった。「三密(≒閉密)を避ける」というスローガンの名の下、人々は実際には空間的にも社会的にも閉密な世界へと押し込まれる。
比較的、対応力のある企業はテレワークへと移行し、働く人は空間的に閉密な世界へと押し込まれた。感染予防の観点から人と会うのが躊躇われる風潮ができ、人々は社会的に閉鎖的な関係性の中での生活を求められた。新たな出会いはもってのほか、偶然性が生まれる、対面でのすれ違いすら起きない環境下に押しやられたのである。
この文章は生活圏の余白を再認識し、その見つけ方や楽しみ方をまとめることで、閉塞的な現代を空間的にも社会的にも、少しでも心地良く生きるためのヒントを探り当てることを目的としている。この閉塞感を緩和するきっかけになれば幸いである。
1. 生活圏の余白の見つけ方
生活圏とは何か、農村の生活環境を研究する藍沢(1983)によれば「生活圏は、個人・集団の生活欲求充足の範囲であ」る。(藍沢宏. 「農村集落における生活圏の設定と生活関連施設の配置に関する研究」 農村計画学会誌 Vol.1, No.4, 1983年)
「生活欲求充足の範囲」とは言い得て妙であり、「人々が社会生活を行う範囲」などの社会的な関係性に基づいた定義ではなく、独立して生活する人もこの定義はカバーしている。
重要なことは、生活圏は人によって異なることである。例えば、自分は川の近くに住んでおり、幼い頃から河原は身近なもので、自分の生活圏に入り込んでいる。一方で山は、生活空間にないため生活圏として認識していない。
この章では、個人によって生活圏が指し示す範囲が異なることを踏まえつつ、余白を見つける際のガイドラインの作成、すなわち余白の一般化を試みる。
先日、生活圏の余白を探しに東横線の多摩川駅周辺を散歩した。その時に見つけた余白をもとに、生活圏の余白を考える。
1-1. 河原
河原は非常に多目的な空間であり、それは用途が決まってない空間としての「余白」が有した力である。用途を決めてしまうと多目的な空間として機能しなくなることが印象的だった。
1-2. 街
この路地では見かけなかったが、路地に植木鉢を置く家は散歩中に散見される。公的空間を私的空間としてジャックする興味深い例だ。
1-3. 公園
公園は生活圏の余白の中でも一大余白である。
1-4. その他
友達と生活圏の余白について話していたら、境内を提案された。確かに、子どもの遊び場になったり、祭りの際にりんご飴や焼きそばを販売する出店が並んだりと、多目的な空間である。
1-5. 余白の一般化
こうして生活圏の余白を眺めていると、余白たり得る条件は2つある。
➀私有性が弱い
公園や河原のような公有地は余白として機能する一方で、私有地は余白として機能しづらい。私有地でなく公有地、私有地の中でも人による監視の目がないところ(例えば神社の境内)が余白として機能する。
②余白の利用に強弱がある
常に目的をもって機能している空間は余白になり得ない。例えば、球技場は球技をする空間としてのみ使われる。その一方で球技場に隣接する空間はパスの練習をしたり、走り回ったりと余白として機能している。また、境内のように時期依存的に利用される時期が定まるような、利用に強弱がある空間の方が余白として機能する傾向がある。
これら2つの余白の性質を押さえて街に出ると、生活圏の余白を見つけることができるだろう。
2. 生活圏の余白の楽しみ方
2-1. 生活圏の余白の楽しみ方
2-2. あると便利なもの
3. おわりに
安易にIT業界に身を投じるな
リンドウ@八島ヶ原湿原
ここ半年、就活と呼ばれるライフイベントに巻き込まれている。日々の研究も結構忙しい上に、今後の人生を見据えたイベントに対応しなければならず非常に困っている。しかしながら、最近は少し視界が開けてきており、良い区切りだと思ってブログを始めることにした。
このブログの目的は主に2つ。1つは、アーカイブ化のため。就活中から就職後まで一貫して同じブログに思考やライフログを取ることによって変化を眺めたい。2つ目は思考の伝達。そんなにたいそうなことは考えていないし、素晴らしい友人たちを眺めていると自分の人生の積み重ねの薄さに辟易することが多く、自身の思考を伝達することに価値は見出せないかもしれない。しかし、社会人になってから実現しようと考えている複数の事柄は、なかなかエキサイティングであり、かつ必ず実現させるつもりで生きているので、その過程や思考の一片を記録し、伝達する媒体としてこのブログを設けようと思う。
ここまでブログ開設の意図を述べたが、最後に対象とする読者を記載してブログの方向性を示したい。このブログの対象とする読者は「俺と人生が重なる人」ただそれだけである。やっていることや考えていることなどが1つだけでも一致している人であれば、それはこのブログの読者として組み込まれている。自分の言語化された思考や感性が、読者の何らかの参照点になれば幸いである。
さて、ここまでブログの開設にあたって概要を述べてきたが、そろそろ本題に移りたいと思う。
-
「安易にIT業界に身を投じるな」
表題はなかなか刺激的な発言だと思う。全体に対するメッセージのように感じるであろうが、これは自分に向けたメッセージであり、他者がこのメッセージをそのまま受け取る必要性はない。メッセージの詳細は以下で述べたいと思う。
このメッセージは自分の直感に由来する。今の時代の就職活動は時代性を反映してか、やはりIT業界の仕事が多いように感じる。それはとても納得感のある流れである。というのも、ITは既存のビジネスモデル、つまり「モノを用意して加工して提供するモデル」から離れた、非常に価値生産性の高いビジネスモデルである。既存のビジネスモデルは、川上のモノの制約により、提供可能な加工したモノ・サービスの量に限りがあった。そのため人々は
➀より廉価なモノから高価なモノを提供
②モノの加工の効率を高める
③新規性の高いモノ→モノのビジネスを開拓
といったアプローチで収益を上げてきた。
IT業界がビジネスモデルとして革新的であるのは、主に2点、川上のモノの制約を受けない、新規性の高いビジネスモデルの確立が容易である、ことに起因していると考えられる。IT業界は技術の進歩により、人間や機械が行っていたタスクをITに代替するというビジネスから、全く新しいビジネスを確立することに成功しつつある。それは人間や機械の代替でなく「ITでしかできない」ソリューションである。
こうした背景から現在、就職活動市場はITの独擅場といっても過言ではない。私は就職活動において、やりたいことの関係からシンクタンクを見ていたが、某シンクタンクN社の新卒採用の予定人数は、リサーチ数名、コンサルタント10名ときて、システム (つまりIT) が100名である。シンクタンクがITに特化するのは会社構造も関係しているが、時代の流れとしてIT人材の育成と調達が求められていることが垣間見える。
しかし、拡大に向かっていくIT業界で自分が「面白い仕事につけるか」を考えたときに、私は直感的にここは自分のフィールドではないと感じた。直感を言語的な解釈に落とし込むのはなかなか厳しい試みだが、可能な限り対応してみようと思う。
まず第一に「面白い仕事」とは何か?という疑問が想定される。最近のマイブーム、安宅和人さんのブログから引用して話を進める。
就職活動するにあたって大きく決めなければならない方針がたった1つだけある。これを自身の興味・関心に応じて選択することが、以降の就職活動、並びにライフプランを左右すると断言できる。
それは「回す人と創る人、このどっちの人生を歩むつもりなのかを考える」というものだ。
(出典: 安宅和人「ニューロサイエンスとマーケティングの間 - スキル以前にサバイバル」https://kaz-ataka.hatenablog.com/entry/2020/09/07/200050 )
これについて安宅さんは以下のように述べている。
左だったら分野ごとに求められるスペックがかなり明確に決まっているので、即していなければ基礎スペックを身につけるしかない。例えば光、カメラの原理、ライティングについて体系的に学んでいない人がプロのスタジオ写真家になることは不可能。右の人はそもそも何かで突き抜けないことには話にならない。至極シンプルな話。
与えられた仕事をキチンとこなすために最適化された「回す人 (図中左) 」は、社会が成立するために必要不可欠である。対して、夢を描き、複数の領域をつないで形にする「創る人 (図中右) 」は未来を変える可能性を秘めている。
詳細は以下のブログで。
この創るはビジネス、さらに大きなスケールでいえば産業を創る人のことを指していると考えられる。それらを踏まえ、自分はこの2択を考えたうえで「創る人」が面白い、というよりも人生をかけて挑みたい道だと考えた。
自分の場合、現状突き抜けているものはないように感じる。しかし、武器にしようと考え、幾分か意識的に知識の収集を行っているのは2点、「再生医療」と「xxx」である。後者は就職先の業界であり、現時点で内定は貰ってないためひとまず言及は避ける。
しかし、将来的には「xxx」の知識と「再生医療」の知識を連動させ、未だ不十分な再生医療産業を「創る」人材に回りたいと考えている。これはなかなか骨が折れる道のりであると思っているが、現在の熱量をもってすれば実現可能性が「無くは無い」道のりであるし、その挑戦の過程で得た知識は有益であると考えているため、この道でひとまず戦ってみようと思う。
このような夢を抱いている一方で、IT業界を眺めたとき自分の武器になり得るものが見つからなかった。当然、業界内に身をうずめることにより見えてくる景色があるが、人材が飽和に向かうであろう産業の中で、現在のITに対する関心を考慮すると「戦えない」という判断が浮かび上がる。
インターンシップに参加した数社のIT部門を見るに、現状「回す人」としての仕事が大半であると推察される。こうした現状を踏まえると、「早めに内定が出そう」「仕事がありそう」「スキルワークだから転職に有利」といった状況判断でIT業界に身を投じるのは、自信の価値観と照らし合わせるに不適切であると判断できる。
結果として、「安易にIT業界に身を投じるな」というメッセージが自己に向かって生じ得るのであり、これは一部「人生が重なる」読者の方へのメッセージでもある。
-
最後にブログを意識するきっかけとなった人を紹介して終わりにする。