生活圏の余白とのつきあい方
0. はじめに
スケジュール帳を見て予定が空いていると予定を入れて埋めてしまうことがある。人との予定は、入っていれば入っているだけ生活が楽しくなるし、バイトは入れるだけ入った方が得られる金銭も大きくなり、結果として他の時間の幸福度が上がる気がする。そんなこんなで後でスケジュール帳を見ると毎日びっしりと予定が入っていることに気が付く。
だが実際、予定が密であれば密であるほど幸福度が高いかというとそうでもなく、予定の無い日が適度にバラツいた方が、思いもよらない時間の過ごし方ができる場合もある。人との予定を詰めるのではなく、もう少し「遊び」=「余白」を持たせた方が面白いような気もしている。
一ヶ月ほど「余白」に着目して生活する中で余白のポテンシャルに気付かされた。冒頭のスケジュールの例であれば、余白はそのときの気分で使える自由な時間でもあるし、急な誘いに応じることで意図していなかった巡り合わせが生まれる時間でもある。
人生には偶然性を取り込むことが重要だと考えている。偶然性を伴わない生き方は、自分が考えている世界の、外側に位置するような体験が得られないし、それはとても窮屈で物足りない生き方のように感じる。人生に「余白=偶然性が生まれる場所」を計画的に取り込むことの面白さを最近実感しつつある。
ここで、改めて余白との付き合い方に向き合ってみる。
余白は色々なものに存在している。デザインの余白、絵画の余白、音の余白、空間の余白、人生の余白、etc
もはや、平面・立体や時間軸を含めた四つの次元で感じるものであれば全て余白が存在しうる、とまで言い切れる。そのような様々な余白のうち、今回は「生活圏の余白」に着目してみようと思う。
新型コロナウイルスは産業や人々の生活を激変させた。例えば、もともと閉鎖・密(集約)を条件とするような音楽産業は壊滅的な被害を受け、ライブハウスなどは潰れていった。「三密(≒閉密)を避ける」というスローガンの名の下、人々は実際には空間的にも社会的にも閉密な世界へと押し込まれる。
比較的、対応力のある企業はテレワークへと移行し、働く人は空間的に閉密な世界へと押し込まれた。感染予防の観点から人と会うのが躊躇われる風潮ができ、人々は社会的に閉鎖的な関係性の中での生活を求められた。新たな出会いはもってのほか、偶然性が生まれる、対面でのすれ違いすら起きない環境下に押しやられたのである。
この文章は生活圏の余白を再認識し、その見つけ方や楽しみ方をまとめることで、閉塞的な現代を空間的にも社会的にも、少しでも心地良く生きるためのヒントを探り当てることを目的としている。この閉塞感を緩和するきっかけになれば幸いである。
1. 生活圏の余白の見つけ方
生活圏とは何か、農村の生活環境を研究する藍沢(1983)によれば「生活圏は、個人・集団の生活欲求充足の範囲であ」る。(藍沢宏. 「農村集落における生活圏の設定と生活関連施設の配置に関する研究」 農村計画学会誌 Vol.1, No.4, 1983年)
「生活欲求充足の範囲」とは言い得て妙であり、「人々が社会生活を行う範囲」などの社会的な関係性に基づいた定義ではなく、独立して生活する人もこの定義はカバーしている。
重要なことは、生活圏は人によって異なることである。例えば、自分は川の近くに住んでおり、幼い頃から河原は身近なもので、自分の生活圏に入り込んでいる。一方で山は、生活空間にないため生活圏として認識していない。
この章では、個人によって生活圏が指し示す範囲が異なることを踏まえつつ、余白を見つける際のガイドラインの作成、すなわち余白の一般化を試みる。
先日、生活圏の余白を探しに東横線の多摩川駅周辺を散歩した。その時に見つけた余白をもとに、生活圏の余白を考える。
1-1. 河原
河原は非常に多目的な空間であり、それは用途が決まってない空間としての「余白」が有した力である。用途を決めてしまうと多目的な空間として機能しなくなることが印象的だった。
1-2. 街
この路地では見かけなかったが、路地に植木鉢を置く家は散歩中に散見される。公的空間を私的空間としてジャックする興味深い例だ。
1-3. 公園
公園は生活圏の余白の中でも一大余白である。
1-4. その他
友達と生活圏の余白について話していたら、境内を提案された。確かに、子どもの遊び場になったり、祭りの際にりんご飴や焼きそばを販売する出店が並んだりと、多目的な空間である。
1-5. 余白の一般化
こうして生活圏の余白を眺めていると、余白たり得る条件は2つある。
➀私有性が弱い
公園や河原のような公有地は余白として機能する一方で、私有地は余白として機能しづらい。私有地でなく公有地、私有地の中でも人による監視の目がないところ(例えば神社の境内)が余白として機能する。
②余白の利用に強弱がある
常に目的をもって機能している空間は余白になり得ない。例えば、球技場は球技をする空間としてのみ使われる。その一方で球技場に隣接する空間はパスの練習をしたり、走り回ったりと余白として機能している。また、境内のように時期依存的に利用される時期が定まるような、利用に強弱がある空間の方が余白として機能する傾向がある。
これら2つの余白の性質を押さえて街に出ると、生活圏の余白を見つけることができるだろう。